木曽開田高原で蕎麦刈りに挑戦!
10月4日から2泊3日で、木曽に行って来た。
ぬぁんと、紅顔の美少年時代(高校生)の仲間が、齢50を過ぎてから一念発起し、百姓になったらしいのだ。
それも、よりによって木曽の山奥・開田高原の耕作放棄地に入ったという。
木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。(夜明け前の序章)
そう、島崎藤村の「夜明け前」の舞台となったあの木曽路、その中心地である木曽福島からさらに20kmほど木曽街道を飛騨方面に登った開田高原である。
前回、恩師・増田先生のことを書いたが、先生に指導された高校時代の同期会は今も活発で、何かあると集まってワイワイ・ガヤガヤやっているらしい。
”らしい……”というのは、地元から離れて久しいのとゴルフをやらないため、めったに参加しないからだ。
ところが今回、万年幹事役のジロちゃんからの
「同期のW君が長野県木曽開田高原で農業に専念していることは既にご存知かと思いますが、今年は蕎麦の刈り入れを同期の希望者で行いたいと思います。(中略)涼しい木曽高原で2泊3日の農作業を楽しみ、満天の星を眺め、酒を飲む旅と考えて戴ければと思います」
とのメールには、ココロ踊ってしまい、すぐに応募した。
だがどうした。募集10名のところ、応募者4名。おまけに直前に新型インフルでK君が脱落し3名という寂しい催行となってしまった。
それでもY君の愛車ジャガーで勇躍出発。平均時速130km、朝7時に新宿を出て10時半には 開田に着いてしまった。
高校時代には面識の無かったW君に紹介され、お茶を一服。
さてこのあと早目の昼飯を喰ってェ……などと考えていたら突然長靴を渡され、軽トラの荷台に乗せられた。
細い山道をガタゴト10分。着いたところは畑というイメージとは程遠いススキ野ヶ原。おまけに地面にはゴロタ石がアチコチに。
「これが畑かい? 耕してねぇのかい?」という私の問いに、「ここいらは元々木曽川の河川敷で、耕作放棄地なんてみんなこんなものさ」とあっさり言うW君。
鍬に石ころ一つ当たろうものなら、手で掻き出して除去する関東ローム層の百姓とはエライ違いである。
聞くところによると10年前、20名が入植(?)したそうだが未だに残っているのはW君のほかにはタッタの1名だとか。
ウーム、さもありなんである。
鎌を渡され蕎麦を刈ることになったが、菜の花畑みたいに畑一面に蕎麦が生い茂ってる光景を想像していたのだが、ゴロタ石の間に雑草が繁りその合間に赤い茎をした蕎麦が混じっているのである。
刈るよりも先に雑草と蕎麦を仕分けなければならない。であるからして、耕耘機などでは刈り取れない。すべて手作業である。
約一反(300坪)の畑にW君と彼の息子、そして我々3人が散らばって草刈を開始した。経験豊富なY君は鎌、幹事のジロちゃんは持参の庭木の刈り込みバサミ、私は畑で使っている収穫バサミと3人3様のスタイルで挑戦である。
収穫量はほぼ同じだったので、どれが有利かは判断できなかった。
だが途中昼食を挟み夕方までかかって干し山(?)二つ(写真参照)、面積的には畑の1/4程度しか刈り取れなかった。
台風の接近で雨も予想されたが、翌日も持ちこたえ、なんとか畑の半分ほどは消化できた。
最終日は予報どおり雨。屋内で花豆の鞘取り作業を行い、開放されたのはお昼前。ご褒美に、最近開設された直売所のレストランでランチをご馳走になり帰京した。
いつも5時には起きるのだが、帰宅翌日はなかなか目が醒めない。おまけに腰が痛い。たった2日間でコレである。
藤村の文章どおり、木曽は山の中である。増して過疎の村の移住者。この10年の苦労は押して知るべしである。だが農作業の合間に、「でも、ココでの生活が本当の人間の生活だと思うよ」とポツリもらしたW君の言葉とともに、生きるとはどういうことかを考えさせられた3日間であった。
最後に毎晩毎食、愛情のこもったおいしい食事を作ってくださっ奥様、ありがとうございました。
(おまけ)幹事のジロちゃんがW家のすぐ前の小川で、尺イワナを釣り上げた。
文字通り朝飯前の1時間、餌のイクラが手に入らず、畑の隅から掘り出した細ミミズでの快挙である。
正確に言うと一尺に一寸足りない九寸イワナであるが、それだけ水清き里なんである。
ジロちゃん! 私が撮ってやった写真送ってよ! 文章だけじゃ、みんな信用しないんだからァ……。
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